東京・大手町。近代的な高層ビルが立ち並ぶビジネス街の一角に、周囲の都市空間とは異なる空気をまとった小さな区画が存在します。
東京都指定旧跡でもある「将門塚」。この場所は、平安時代の武将・平将門の首を祀った地として古くから語り継がれてきました。
なぜこの小さな区画は、周囲の都市が大きく姿を変え続けるなかでも、今日まで保存され続けてきたのでしょうか。

■語り継がれる伝承と出来事
『将門記』などの史料によれば、平安時代に挙兵した平将門は陣中で討たれ、その首が京都へ送られたと伝えられています。
一方で、後世の伝承では「京都で晒された首が夜ごと声を上げて叫び、自らの体や縁のある地を求めて東国へと飛んでゆき、この地に落ちた」と語られてきました。
また近代以降、この敷地の利用や都市開発に伴い、塚の周辺でさまざまな出来事が記録されています。
大正期の関東大震災後、大蔵省の仮庁舎建設に伴い塚の一部が壊された際には、関係者の相次ぐ不幸から「祟り」の噂が広がり、のちに鎮魂碑が建立されました。さらに戦後、米軍による整地作業の際にブルドーザーの横転事故が起きたという記録や証言も残されています。
こうした出来事が重なるなかで計画の見直しが行われ、将門塚という区画自体は失われることなく、今日まで維持されることとなりました。
なお、現在の将門塚は当時の姿が手付かずのまま残っているわけではありません。1961年以降、保存会などを中心に複数回の改修工事が行われており、2020年から2021年にかけても大規模な整備が実施されています。決して放置されてきたのではなく、時代の変化とともに手入れされ、守られてきた場所といえます。

■この場所が「立ち止まらせた理由」
ここからは、史実そのものではなく、「なぜ人々はこの場所で足を止め、区画を残し続けてきたのか」という背景についての一つの考察です。
一つは、都市開発と「目に見えないものへの敬畏」のバランスです。どれほど近代化が進んでも、日本社会には古くから「無念の死を遂げた者を穏やかに祀らなければ災いが及ぶ」という感覚が根深く存在していました。合理的な土地利用を進めようとする一方で、人々の間にあった「恐れ」や「敬意」の感情が、解体や完全な撤去に対する心理的なブレーキとして作用したのかもしれません。
もう一つは、「偶然の出来事」が重ねられていったプロセスです。工事や整備の過程で偶然起きた事故や不幸が、昔からの伝承と結びついて「触れない方がいい場所」という認識が周囲に広がっていったと考えられます。一度そうした雰囲気が醸成されると、わざわざリスクを背負ってまでその場所を壊そうとする動きは起こりにくくなります。
こうして伝承、人々の心理、そして行政や保存会の取り組みが重なり合った結果として、この区画が守られてきたのではないでしょうか。

■記録と記憶のあいだ
歴史的史料として確認できる事実と、人々によって語り継がれてきた伝承や記憶の間には、明確な線引きが必要です。
平将門という武将の存在や挙兵、討伐後に首が京都へ送られたこと自体は歴史的事実として史料に記されています。しかし、「首が空中を飛んできた」という話や、「特定の事故の原因がすべて祟りによるものであるか」といった点については、客観的な証拠によって証明できるものではありません。
一方で、大正期の大蔵省仮庁舎建設時の混乱や鎮魂碑の建立、戦後の米軍による敷地利用や事故の記録、そして東京都旧跡への指定といった経緯は、近現代の事実・記録として確認できます。
史実としての「将門の生涯と動向」と、伝承としての「首の飛来や祟りの語り」。この二つが時代ごとの人々の不安や敬意と結びつき、重なり合うことで、現在の「将門塚」という空間の意味合いが形作られてきたといえます。
すべてが科学的に説明できるわけではありませんが、この「記録と記憶のあいだ」に漂う曖昧さこそが、現代の都市の中で今なお異彩を放ち、訪れる人に立ち止まる瞬間を与えているのかもしれません。
■現地の場所・アクセス
- 所在地:〒100-0004 東京都千代田区大手町1丁目2−1
- 最寄り駅・交通:東京メトロ・都営地下鉄「大手町駅」
- 地図
■制作動画
■参考資料・出典
- 将門塚保存会
「将門塚の由来および沿革」 - 国税庁
「大蔵省仮庁舎建設と将門塚に関する歴史的記述」 - 東京都教育委員会
「東京都指定文化財(旧跡) 将門塚 指定概要」 - 神田神社(神田明神)
「平将門公御神徳と将門塚の由緒」 - 歴史史料
『将門記』(平将門の挙兵から最期までの記録)
『太平記』(後世における将門首飛来伝承の変遷)

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